橘たかし no 皆の仲間: 2014年5月8日木曜日

2014-05-08

第2回 ブラック企業とは私の就労経験から言える事

入社1年目

コンピュータ部門に配属された新人は私も含め男7人・女5人の計12人だった。

募集要項では最終学歴は高卒以上となっていたが実際は大卒が9人で専門校卒が3人だった。

この12人は微妙に入社日が違う。

1次採用者は3月15日付で2次採用者は3月21日付だった。

入社して直ぐにプログラミング研修が始まった。

私は2次採用組なので1週間後から研修に参加したが全く遅れを感じなかった。

それは当時の講師だった女のカリキュラムの特性だった。

ちょっと専門的になってしまうがプログラミングは構造化されておりバッチ処理なら基本構造が4パターン位しかない。

そして各プログラム内の構造も初期処理から始まり主要処理、終了処理の3段階になっている。

また個々の処理を更にサブルーチン化するといった手法が一般的に取られていた。

つまり雛形(今流で言うテンプレート)が用意されており、ある箇所を修正するだけで短時間でプログラムが完成した。

しかし講師は処理結果が合ってさえいれば頭から最後まで自らの発想だけで自由にプログラミングしろと課題を課した。

おそらく10本以上はプログラミングしたと思うが定型がないから各自、内容がバラバラだった。

先輩にアドバイスを求めた際もステップを追うことさえ難しく、どこがバグなのか究明するのに時間を要した。

もっと具体的に言うと初心者が多用しやすいGOTO文を使ったプログラムだったので効率性がなく複雑怪奇になった。

それでも皆、課題をクリアして行き最後のプログラムとなった。

それがカレンダの作成プログラムである。

ある年を指定すると、その年のカレンダを作表するものだった。

これには4次元テーブルの知識をフルに活用する必要がありプログラミングに時間を要した。

そして女2人が遂に完成出来なかった。

その1人は専門校出身者だが、こんなプログラムは習ってないと愚痴を溢した。

その女2人は3ヶ月目に辞めてしまった。

それまでは皆、同僚のよしみで公私に渡り交流があった。

一緒に飲みに言ったりボーリングや卓球、アミューズメントパークにも行った。

何か大学のサークル活動の延長の様で楽しかった。

また、そこには専門校出身の1年先輩の女2人も意気投合して行動を共にしていたので私だけかもしれないが恋愛対象として暑い視線を送っていた。

そして忘れられないのが男女の労働不均衡社会の最後の年だった事だ。

朝、出勤すると女は男に、お茶かコーヒーを出した。

当番制になっていて交代で給仕をしていた。

タバコも机に灰皿が置いてあり自由に自分の席で吸った。

我々、新人は自分の席でタバコを吸う事に抵抗感があり階段の踊り場で吸った。

しかし男先輩からは、それが気に入らなくて自分の席で吸えと注意された。

研修は半年続いた。

そして実務に入ったが残りの半年は全く仕事らしい仕事をしなかった。

男の先輩は午後くらいから平気で居眠りしていた。

不景気だからでなく十分、売上高が伸びている時代だったが大きなプロジェクトが終わった端境期だった。

そいった中、急激に伸びていた宅配事業のため宅配センターの新設が相次ぎシステムの改修が必要で当時の課長と1年先輩の女2人が担当していた。

後は定期処理で利用割戻しがあった。

年間の購入額を、ある利率の現金で払い戻す処理だった。

しかし、それが失敗した。

払い戻し金額が違っていた。

その担当者の女は、なんらかのペナルティを追ったはずだが詳細は分からない。

また、こう言ったプロジェクトのプレッシャーが相当、重圧だった事は後に思い知らされる。

2年目の悲劇

実は働いていた会社は雇用元と違う委託会社で出向扱いだった。

それが突然、解散する事になった。

まだ新人だった私には、その経緯が全く判らず出向が解かれ元の会社のコンピュータ部門として引き続き働く事になる。

そして13人いた部長、課長、主任クラスの人材が新会社を設立すると称して一気に退職してしまった。

特に1年先輩の親密だった女2人も退職し、それが一番ショックだった。

実務的なベテラン社員が一気に13人も居なくなり、これまでのコンピュータサービスを、それでも維持しなければならない困難にぶち当たった。

そして私は、その時プロクラムを組む側からプログラムを操作する側に移っていた。

それと同時に新部長が就任した。

(追記 2021.7.22)

この新部長は後に50代で過労のため他界する。

経営統合の際、彼は関連会社の取締役社長として新任した。

しかし、その会社が受注した宅配新システムが稼働日を迎えても全く完成しなかった。

その事後処理のため新社長は納品先の北陸に昼夜張付いた状態の生活を約半年送る。

確か経営戦略部門から迎えられた。

彼は当社の宅配システムを構築する際の立案者だった。

商品を詰めるケースを配送が終わった後かさばらない様、折りたためるケースを開発し特許も取得していた。

また大手コンピュータメーカーとも太いパイプを持ち影響力が強かった。

ここからは憶測だが、その新部長は全くコンピュータのセンスの無い女を多く採用した。

これは日々の仕事に忙しく恋愛などする暇のない男に少しでも婚姻の機会を与えたいという思惑があった気がする。

実際、職場結婚した者もいたし私も自宅で手料理を食べて欲しいと誘われ、はせ参じたが料理が不味くて閉口したのを思い出す。

また新部長はコンピュータを操作する部署のスキルの低下を懸念し大手コンピュータメーカーから1人をスカウトし課長として迎えた。

しかし、これが今後この会社がブラック化する根源となる。

まず、その新課長の特徴が常に大声で怒鳴りあげ相手を威嚇して服従させるといった私が、これまで遭遇したことのない人物だった。

私は朝が弱く(別に低血圧などでなく)よく遅刻した。

就労規則では月3回以上遅刻をすると、その理由を報告書で上げるよう義務付けられていた。

それは、それで規則なので自分の中で納得していた。

しかし、その新課長には遅刻自体許せないらしく、というか、こんな時にしか自分の威厳を誇示できないか他の社員の前で私を罵倒した。

そのくせ実務レベルのスキルは低くかった。

入社2年目の私が分析したオンラインプログラムを彼の前で説明した際オンラインプログラムの原理(トランザクション)しか理解していなかった。

この人って全くスキルの無いのに何を偉そうにしてるんだろうと増々不信感が募った。

たまに忘年会で話す機会があると

「失敗した。失敗した。」

と愚痴った。

つまり今で言う大企業の安定性からベンチャー企業の高収益性を求めたはずが一向に給与が上がらなかった事に不満があったのだ。

しかし、それを会社の責任にするのは、いかがなものかと思った。

また、こんな事もあった。

あるコンピュータ処理を先輩は自分の経験則でのみ処理しようとしていた。

私は、それに待ったをかけた。

何故ならコンピュータを操作する世界で、その処理内容をチェックせず曖昧な判断で断行しようとしていたからだ。

専門的にはジョブフローも存在せずマクロの吟味もせず断行する事に生理的に抵抗があった。

すべての処理にジョブフロー、指示書、運用マニュアルの3点セットを必ず添付する事を働きかけたのは入社2年ちょっとの私だった。

そういった意味で私は、その部署で標準化に数々、取り組んだ。

ジョブフローの標準フォーマットも、その一つだ。

当時ごく一般のパソコンに必ずインストールされている表計算ソフトの図形機能を使った。

セルの高さと幅を絶妙に調整しB5サイズに一列3ステップを4行と定めた。

その過程でジョブフロー作成ツールを導入する動きもあったが操作方法を取得する手間がかかった。

レイアウトを本人任せにするため非常に成果物にばらつきがあった。

また他人が修正する際その人のパソコンに必ずそのソフトウェアをインストールしなければならない。

そのインストール、バージョンアップの管理を誰が、どの様にするか全く議論せず単純に手書きより楽といった短絡的な考えから始まった。

そこで私は、その動きに対抗するため自らコツコツと表計算ソフトで作成した。

ジョブフローを次々とファイルサーバーに蓄積していき全ジョブフローの約3分の1を網羅した。

そして自然発生的に、その表計算ソフトを使って修正箇所のみ修正したジョブフローがシステム会議の場で提出される様になった。

またプログラム仕様書も同じ表計算ソフトを使って表紙の概要書、関連図、ステップ説明書の3点をセットにし標準化に成功した。

しかし、これらは慈善的な作業だったので考課には全く反映されなかった。

今になって振り返ってみると、もっと前段で問題提起し全員の議論を深めて実施するべきだったかもしれない。

実は、それらを議論するべき素案を提起する様、ある課長の課題とされたが彼は頑なにその課題を先送りし豪を煮やした私が、こういった行動をとった。

その課長は後、私との考課面接で高評価してくれて私は係長になったのは偶然でない。

ちなみに係長になったのは、かなり後で同期に入社した中では一番最後だった。

(追記 2021.7.22)

ここで私の係長時代に少しふれる。

部下は僅か3人の精鋭達だった。

システム管理つまりITインフラを司どった。

と言えばカッコは良いが中々上手くいかなかった。

PC周りの環境整備には苦労した。

丁度インターネットが普及し通信環境が変わっていく最中だった。(専用線→VPN)

だから現行のインフラの維持だけでなく新たな提案も必要だった。

一方、無計画に処理を続行しようとした先輩は課長になってすぐ気分障害で異動する。

つまりコンピュータには緻密さが要求されるが彼の様なガサツな人には不向きだ。

さらに彼は異動先の店舗でも商品発注ミス(ロット単位の見誤りで大量発注をかける)で、また自宅療養の羽目になる。

それと外注とパートをコンピュータ操作要員として雇用したのにも閉口した。

まずコンピュータの周辺機器(プリンタとMTが主)の操作技能の取得に無理があった。

直接パートをマネジメントする羽目になった私の能力不足もあり教えるより自らやった方が楽と勝手に判断したためパートは一日中ぼーっと椅子に座ったままの日々が続いた。

そして、たまに私は「仕事とは」といった抽象的な話をして、それを、そのままノートに書き写していたのが虚しかった。

そして2、3週間で彼女は退職し店舗社員(美人だったので、会社中で付き合いたい男がいた)と結婚し幸せな日々を送っているともれ承った。

一方、外注の方も問題が多かった。

当時、派遣業社があったか不明だが非正社員が、どういった処遇で、どいったスキルで入社したか全くの未知数だった。

一通りOJTしたら、それなりの作業はこなせたが責任感が薄かった。

いくら、この会社に忠誠を誓ったところで、すぐ次の場所に異動させられるという思いがあった。

また感情の起伏が激しく腹が立つとダンボールを蹴散らかして平気で穴をあけていった。

全く紳士的でなかった。

それと特筆すべきは親友になった白石だ。

彼は今で言うパソコンオタクで当時8ビット、ザイクロ製Z80プロセッサを搭載したマイコンでマシン語を使い高速処理のゲームソフトを作成できるだけのスキルがあった。

しかし、そのスキルを仕事に全く生かさず暇さえあればIBM製パソコンでBEEP音を鳴らしてみたり、ふざけてばかりいた。

そういったもんだから、すぐ勤務評価が下がり一人埼玉県にある青果センターのAS/400のお守りを任された。

しかし青果担当の依頼のプログラム作成もそっちのけで、そこでも問題児扱いされ突如、店舗異動を命ぜられる。

そして店舗業務をすることなく退職した。

それ以来、彼とは連絡を取ってない。

そして青果センターに残されたAS/400だが運用は青果担当に委ねられた。

また私が現状調査のため青果センターを訪れた際、残された彼が作成したグラフィカルなスクリーンセンバーが虚しかった。

途中検証

さて、ここまでの話でブラック企業たる要素を検証してみる。

まず大量採用だが急激な雇用が生まれ人員不足による緊急処置だった事が後に判る。

また成長分野だった宅配は劣悪で注文された商品を会員に届けるだけでなく会員の新規加入を募る仕事も、こなさなければならなかった。

現在は勧誘活動の専門職がいるみたいだが当時は、そういった人員を割く余裕がなく強要されていた。

つまり勧誘してくる人数のノルマが課せられ、それに達せ無い者は達するまで帰ってくるなと竹刀を振りかざす上長がいた話は有名だ。

よってノルマ達成のため自ら会費(5千円)を負担し5口や10口も自己負担する社員がいた。

後にマスタから同一名で、同一住所同一電話番号だった会員を抽出する作業に立ち会ったから正確に覚えている。

よって離職者が後を絶たず常に公募する状態だった。

しかも運転免許を持ってない者にも会社負担で免許を取得させていた。

ちなみに同期で宅配事業に配属された同じ大学の者は1年後1人も残ってない。

またコンピュータ部門に全くの素人を配属させるのも検証の余地がある。

今ほどコンピュータ技術が高度でなくメーカーのサポートも手厚かった。
正確にはメインフレームは数億はする機器で、それだけの代価を払っているからメーカーのサポートも当然手厚かった。

そして研修中の僅か3ヶ月で退職する、しかも専門校出身がなどから、もっと事前に自分は、こいった分野に不適切と判断できなかったのだろうか。

これは雇用元も含めた検証材料だ。

また突然の会社解散による人員不足だ。

それは後々まで私の職場の劣悪さを引きずるきっかけになった。

つまり入社1、2年目の社員が時間を掛け、それ相応のスキルを身につけるはずが突然、最前線に立たされ重大な責任を負わせられた。

これはコンピュータに関する専門知識だけでなくビジネスマンとしてのレポート作成や上司、部下とのコミュニケーション能力、プレゼンテーション能力といった分野に及ぶ。

そして、そこには勝者はおらず敗者のみがいた。

当時よく言われたのがコンピュータシステムは

「出来て当たり前、出来なければ自ら去れ」だ。

システム構築とは「予算、納期、品質」を守るのが常識で低予算で済んだ納期が早かった、高品質だった事は高評価にはならない。

そんな厳しい世界だと入社後、随分たって思い知らされた。

だから私の基本給(当時は、残業代が高かったから気にもしなかったが)が20万円以下だった時代が30代後半まで続いた。

今に照らして言えば急成長期の企業は、まず社員が若いためビジネススキルが低く「てにおは」も満足に使いこなせいため職場が混乱している。

責任所在も、はっきりせぬまま見切り発車する。

さらに低所得(社員より株主に高配当が行く構図)といった事が起こる。

最後に人間関係にも触れておく。

ビジネスだから、すべてビジネスライクに繋がればいいかと言えば、そうもいかない。

もっとスキンシップが大事な場面もある。

その距離感が難しい。

そこを誤ると折角、良好だった職場が一気にブラック企業と化す。(つづく)