橘たかし no 皆の仲間: 2014/05/01

2014-05-09

第3回 ブラック企業とは私の就労体験から言える事

想定外の都落ち

突然、異動が決まった。

場所は埼玉県所沢市の生鮮センター、同期が先発で赴任していて、その交代要員だった。

コンピュータ部門で出世したいのであれば必ず経験しておいて欲しい部署として新部長は判断していたらしい。

しかし、ここが後にお荷物というか超ハイパー約束違うじゃん的処置をされる。

つまりコンピュータ部門外しだ。

将来的に不況に突っ込んで行く過程で正社員を常駐させるには経費が嵩むお荷物部署となった。

前回、少し話した青果センターと同じ扱いだ。

つまり青果(野菜)生鮮(肉・魚)をパッケージし値札を貼って店舗、宅配センターへ配送する拠点を制御するコンピュータを誰がお守りするかが問題となった。

経営陣は経費削減を求めるが、お守りには、それなりの専門知識が必要で、そうは言ってもコンピュータ部門の正社員を常駐させるにはコストが合わなかった。

そこで青果センターは全くもって専門外の一般社員に担当させた。

生鮮センターは元コンピュータ部門の正社員の中の超問題児(誰ともろくに話ができない超コミュニケーション欠如者)を常駐させる事で落ち着く。

ちなみに彼は、そこで20年間、毎日、毎日同じコンピュータ処理を繰り返す作業に耐え見事に係長に昇格する。

しかし、これは後談であり私が異動した当時は出世するための通過点でしかなく約1年から半年で本社に戻れた。

異動してみると私と同期だった富樫と生鮮センターのコンピュータ部門専属枠で入社した岩淵とパート職員が2名居た。

場所は最寄り駅が西武池袋線の所沢駅からバスで30分で東武東上線の志木駅からだとバスで20分のところにあった。

まず、この立地が私を苦しめた。

朝9時に第2便の納品書出力と言うのがあって当番の1人が、朝9時までに出勤して対応する事になっていた。

もし遅刻すると、その出力がスットプする。

のみならず出力される店舗ごとの納品書を控えとトラック運転手に渡す分に剥がす。(2枚綴りだから)

そして非常階段を駆け下りて(事務所は2階にあった)商品を満載したトラックが冷蔵室に向かって後ろ付けされた場所までダッシュしなければならなかった。

おまけに、その納品書を出力する前に訂正伝といって発注通り生産できなかった商品の訂正数を入力すると言う前処理が必要だった。

だから尚更、午前9時出勤が厳守された。

つまり出荷がスットプし店舗の入荷が遅れ各店舗で入荷を待っている正社員、パート、アルバイトを遊ばせるというか開店に間に合わないとロスになる訳だ。

ところが、ご承知の通り私は朝がダメで、しばしば遅刻しそうになったし遅刻した事もあった。

まず遅刻しそうな時は最寄り駅(志木駅)からタクシーを飛ばした。

宮原交通、忘れもしない。

タクシー運転手と親しくなり過ぎて乗車した私の顔をみただけで黙って生鮮センターまで向かってくれた。

焦っているのを百も承知で実際は余り意味は無かったが裏道らしきルートを通るタクシー運転手がいた。

また車内に携帯テレビを持ち込んで、それを観ながら運転する超脇見運転、交通違反すれすれタクシー運転手もいた。

運賃は勿論、自腹だった。

因みに通常であれば送迎バスがあり、それを利用するのだが1便しか運行していなかった。

それを逃すと路線バスだが、まず都合のいい時間帯には来なかった。

確か路線バス運賃は交通費として支給されていたので送迎バスを利用すると、その差額がまるまる儲けになった。

そして遅刻した時は怒られた。

まず富樫それと情報処理担当課長、挙句は生鮮センター長(のち常務理事)に罵倒された。

よって、まず、この時間の縛りが嫌だった。

後に私がシステム開発部門に配属された際は部長に対し

「システム開発とは四六時中、頭をフル回転させる仕事なので休まる暇がない、よって勤務体制をフレックスタイム制にせよ。」

と労組を通さず直談判した。

当時フレックスタイム制を採用している会社は少なく労組としても、どんなメリットがあるか理解不明のまま了承した。

話を戻すと職場環境も劣悪だった。

まず肉と魚の異臭が2階の事務所まで漂っていた。

それは血のりが着いた作業着のまま社員が平気で闊歩していたからだ。

後に改装され密室になったが当時はコンピュータを操作するフロアをパーテイションで区切っただけの場所で商品検査も行っており薬品か何かの激臭がして閉口した。

また食事は食堂が同じフロアにあり日替り定食とカレー、うどん、ラーメンしかメニューは無かった。

ご飯は自分でよそおい、お替り自由だったがジャーを開くと古米の異臭がし食えた物でなかった。

あとパン、ジュース、タバコの自販機があった。

そして食後、男子は10畳位の休憩室にごろ寝していた。

そのセンターの情報処理担当課長など昼12時半から午後3時まで平気で仮眠していた。

私は何か不衛生でノミがいそうで嫌だったので1度も足を踏み入れた事がない。

帰宅も定時の送迎バスがあったが利用した記憶は少ない。

路線バスかタクシーだった。

終電が終わった後にタクシーを利用した際は長距離利用者が珍しく運転手は舞い上がっていた。

また、しばしば領収書をもらい忘れて出金伝(科目:通信交通費)が切れずに泣き寝入りした。

話を異動した頃に戻す。

同期の富樫の私に対する態度が豹変していたのは驚いた。

新人研修中は東北出身の朴訥な温厚な奴だった。

だが恐らく岩淵が、それまで構築したコンピュータの運用環境が劣悪だったので、それを改善するのに躍起だったのだと思う。

それ位、酷かったのは私も納得した。

JCL(マクロ化もされてない処理が存在した。)が意味なく細切れにされていて、どの順番に起動していけばいいか、そのシステムを熟知してないと無理だった。

それを岩淵は全く専門知識が無かったせいか有り難く言われたまま繰り返すだけしかしていなかった。

もっとコンピュータなんだから機能を駆使して自動化すれば意味無く残業したりせずに済むはずが、そうでなかった。

確か岩淵が自作した作業順番表(そこに命名されたジョブ名が3文字だったり5文字だったり命名規約が全くなかったから覚え辛くてしかたなかった。)なるものを頼りにジョブを起動していった。

それを富樫は命名規約を決めマクロ化やジョブグループ化などして最適化、最効率化している最中だったから目が血走っていた。

だから常に私に対して上から目線で命令口調に変わっていた。

と言うか彼とは、ずっと仕事を共にするが常に上司からの期待が大き過ぎてテンパッタ状態だったから周りに威圧的だったのだと思う。

だだオタクなので同じパソコンオタクの棟方とパソコン談議で花が咲き、その時は口が綻んでいた。

アルコールが入ると「とんちゃん」「ちゅんちゃん」と呼び合う陽気な奴だった。

因みに岩淵はコンピュータ分野では全く才能を開花することが無かった。

本社コンピュータ部門へ異動となり才能が無いから誰からもプログラミングすら頼まれず、ぶらぶらしていた。

ところが何かを自覚したのだろう。

会計や財務といった分野の勉強を職務中に、こそこそしだした。

そこで培った知識が買われて部長が経営戦略担当理事に就任した際、腹心として抜擢され、のち課長に上りつめた。

つまり人材と仕事のバランスが不均衡だったため能力の高い奴に仕事が集中し、そうでない奴は暇を持て余すといった事が職場で起こっていた。

そこで余った時間があった奴は自己啓発に費やし新しい道を見出した。

面白い話があった。

本文とは全く関係ありません
また部長の趣味で才能ゼロの可愛い子ちゃんが異動してきた。

彼女は僅か0.3人月の作業を半年間も完結出来ぬままでいた。

毎週火曜日の全体会議で今の自分の仕事の進捗状況を報告する。

だが彼女は毎回、同じ話を繰り返し全く進捗がなかった。

それが全く問題にならなかったので私が上司に抗議した。

その上司は黙って彼女の代わりにその作業を半日も掛けずに仕上げた。

その後、彼女にどんな軋轢があったか知らないが数週間して退職した。

話を生鮮センター時代に戻す。

コンピュータのオペレーションには慣れたが、ずっと慣れない事があった。

帳票配布だ。

数十種類もの帳票が出力されるが、それを帳票タイトルを頼りに担当者の机に置いて回る作業だ。

だが帳票によっては誰に何部渡すか同じ帳票を部数ごとに切離す(連帳だったので)のには苦労した。

また机に帳票を置くと、お茶やコーヒーを溢す奴がいて

「ゴメン、出し直して。」

と平気で言う奴もいた。

課長クラスの奴ばっかだったから文句も言えず再出力する。

帳票イメージを保存していれば、まだ楽だ。

だが保存してないとなると入力データをコピーするかジョブの途中から流してデータを作りプログラムから作表するのが超面倒だった。

そこで私の提案だが整理ケースを用意して、そこに部署名と担当者名を記入したステッカーを貼り、その各引出しに帳票をぶち込む様に改善した。

そして運用し始めて判った事は暫く経つと引出しにある帳票が溜まり始めた。

つまり全く使っても無い帳票をダラダラ出している事が判明し無駄もなくせた。

それと参ったのが毎月の締めの商管表の出力だ。

まず締めの仕入伝が集まらない。

各担当者は自分で抱えたり訂正伝や返品伝を出し忘れたりと商管表の再出力など度々あった。

それでも多額の不明ロスが出て生鮮センター長が最終チェックするのだが自分の勤務評価に繋がるから細かいとこまで突っ込んで質問して来た。

コンピュータの誤動作で数字が狂ったとか、とにかく難癖をつけられた。

仕入伝のパンチングは好きだった。

始めこそテンキー入力に不慣れなため時間が掛かり入力ミスも多かったが次第に慣れテンキーを見ずに入力できミスも減っていくと

「単純労働ってなんて楽しいんだろう。」

と、しみじみ感じた。
年号事件

私が生鮮センターで働いてる最中に昭和天皇が、ご逝去された。

そして年号が昭和から平成になった。

ここでコンピュータでの大問題が日付だ。

つまり今まで日付を和暦と西暦を混合して使っていた。

それはシステムを構築したのが昭和時代だったから日付の加減は和暦でも西暦でも問題なくできた。

ところが年号が変わると数字がゼロにリセットされるから和暦が極力使い難くなってしまった。

そこで会社の方針として日付をすべて西暦に切替える事となった。

すると和暦で日付していた場合、桁数が2桁から4桁に増える(1999年までを想定すれば2桁で構わないが近々に2000年を迎えるから、これを期に4桁にする考え方)となると1レコードのレイアウトの変更が必要になる。

ただし空き領域があれば、ましな方で空き領域がなければレコード長が伸びファイル領域の見直しまで迫られる。

どのファイルの1レコードの何桁目から何桁目が日付なのか洗い出しから始めなければならない。

レコードレイアウト設計図などドキュメントがあれば助かるが作成しない場合がある。

またジョブ内でソート(分類)で日付がキーになっているとキーの指定位置と桁数の変更も必要になってくる。

プログラムの変更も当然、必要になってくる。

また切替えのタイミングも非常に難しい。

入出力媒体(主に紙)の表示ないし記入を何時から切替えるか調整が必要になる。

という訳で前にも述べた、ずさんな管理をしていた生鮮センターのシステムは、ろくなドキュメントがない為、困難を極めた。

私は正直、無理だと尻込みしてしまい全部、富樫に任せた。

彼は、それに答えようと必死だった。

過程は省略する。

結論だけ言うと大失敗だった。

今でも覚えているのが全くデタラメな結果になった生産指示書を出力してしまい復旧する目処も立たない中、生産時間が来た。

生産工程の担当者が何の騒ぎもなく日常通り、その帳票を持ち帰って生産を始めたのには驚いた。

彼らにとっては値が誤っていようが生産することが重要で誤った数の商品が店舗や宅配センターに届いても全く商品が届かないより益しと言った判断だった。

訂正を後ですればよしとしたのだと思う。

検証

期間にして半年位だったと思う。

しかし、ここで多くの経験を積む事となる。

ブラック企業とは何か話すとすれば劣悪な環境もブラックの要因だと思う。

劣悪な環境なのだから、それなりに給与を高額にすべきだが全く考慮されてない。

本社もセンターも同じ給与体系だ。

若干、本社の方が就労時間に比べ有給休暇が少なかった気がする。

さらに生鮮センターには生産工程だけでなく原料工程という部署がある。

毎日、零下30度の冷凍庫での作業を余儀なくされる人もいる。

冬場はともかく夏場は外気との温度差が激しく体調を崩し易い。

また生産工程に話を戻すと毎日、ひたすら冷凍魚の頭か尻尾を切り落とす単純作業を繰り返し指が腱鞘炎になって曲がらなくなった人を私は知っている。

私は彼に

「労災を申請すれば。」

と忠告したが、そんな事したらクビになるからと断られた。(つづく)

2014-05-08

第2回 ブラック企業とは私の就労経験から言える事

入社1年目

コンピュータ部門に配属された新人は私も含め男7人・女5人の計12人だった。

募集要項では最終学歴は高卒以上となっていたが実際は大卒が9人で専門校卒が3人だった。

この12人は微妙に入社日が違う。

1次採用者は3月15日付で2次採用者は3月21日付だった。

入社して直ぐにプログラミング研修が始まった。

私は2次採用組なので1週間後から研修に参加したが全く遅れを感じなかった。

それは当時の講師だった女のカリキュラムの特性だった。

ちょっと専門的になってしまうがプログラミングは構造化されておりバッチ処理なら基本構造が4パターン位しかない。

そして各プログラム内の構造も初期処理から始まり主要処理、終了処理の3段階になっている。

また個々の処理を更にサブルーチン化するといった手法が一般的に取られていた。

つまり雛形(今流で言うテンプレート)が用意されており、ある箇所を修正するだけで短時間でプログラムが完成した。

しかし講師は処理結果が合ってさえいれば頭から最後まで自らの発想だけで自由にプログラミングしろと課題を課した。

おそらく10本以上はプログラミングしたと思うが定型がないから各自、内容がバラバラだった。

先輩にアドバイスを求めた際もステップを追うことさえ難しく、どこがバグなのか究明するのに時間を要した。

もっと具体的に言うと初心者が多用しやすいGOTO文を使ったプログラムだったので効率性がなく複雑怪奇になった。

それでも皆、課題をクリアして行き最後のプログラムとなった。

それがカレンダの作成プログラムである。

ある年を指定すると、その年のカレンダを作表するものだった。

これには4次元テーブルの知識をフルに活用する必要がありプログラミングに時間を要した。

そして女2人が遂に完成出来なかった。

その1人は専門校出身者だが、こんなプログラムは習ってないと愚痴を溢した。

その女2人は3ヶ月目に辞めてしまった。

それまでは皆、同僚のよしみで公私に渡り交流があった。

一緒に飲みに言ったりボーリングや卓球、アミューズメントパークにも行った。

何か大学のサークル活動の延長の様で楽しかった。

また、そこには専門校出身の1年先輩の女2人も意気投合して行動を共にしていたので私だけかもしれないが恋愛対象として暑い視線を送っていた。

そして忘れられないのが男女の労働不均衡社会の最後の年だった事だ。

朝、出勤すると女は男に、お茶かコーヒーを出した。

当番制になっていて交代で給仕をしていた。

タバコも机に灰皿が置いてあり自由に自分の席で吸った。

我々、新人は自分の席でタバコを吸う事に抵抗感があり階段の踊り場で吸った。

しかし男先輩からは、それが気に入らなくて自分の席で吸えと注意された。

研修は半年続いた。

そして実務に入ったが残りの半年は全く仕事らしい仕事をしなかった。

男の先輩は午後くらいから平気で居眠りしていた。

不景気だからでなく十分、売上高が伸びている時代だったが大きなプロジェクトが終わった端境期だった。

そいった中、急激に伸びていた宅配事業のため宅配センターの新設が相次ぎシステムの改修が必要で当時の課長と1年先輩の女2人が担当していた。

後は定期処理で利用割戻しがあった。

年間の購入額を、ある利率の現金で払い戻す処理だった。

しかし、それが失敗した。

払い戻し金額が違っていた。

その担当者の女は、なんらかのペナルティを追ったはずだが詳細は分からない。

また、こう言ったプロジェクトのプレッシャーが相当、重圧だった事は後に思い知らされる。

2年目の悲劇

実は働いていた会社は雇用元と違う委託会社で出向扱いだった。

それが突然、解散する事になった。

まだ新人だった私には、その経緯が全く判らず出向が解かれ元の会社のコンピュータ部門として引き続き働く事になる。

そして13人いた部長、課長、主任クラスの人材が新会社を設立すると称して一気に退職してしまった。

特に1年先輩の親密だった女2人も退職し、それが一番ショックだった。

実務的なベテラン社員が一気に13人も居なくなり、これまでのコンピュータサービスを、それでも維持しなければならない困難にぶち当たった。

そして私は、その時プロクラムを組む側からプログラムを操作する側に移っていた。

それと同時に新部長が就任した。

(追記 2021.7.22)

この新部長は後に50代で過労のため他界する。

経営統合の際、彼は関連会社の取締役社長として新任した。

しかし、その会社が受注した宅配新システムが稼働日を迎えても全く完成しなかった。

その事後処理のため新社長は納品先の北陸に昼夜張付いた状態の生活を約半年送る。

確か経営戦略部門から迎えられた。

彼は当社の宅配システムを構築する際の立案者だった。

商品を詰めるケースを配送が終わった後かさばらない様、折りたためるケースを開発し特許も取得していた。

また大手コンピュータメーカーとも太いパイプを持ち影響力が強かった。

ここからは憶測だが、その新部長は全くコンピュータのセンスの無い女を多く採用した。

これは日々の仕事に忙しく恋愛などする暇のない男に少しでも婚姻の機会を与えたいという思惑があった気がする。

実際、職場結婚した者もいたし私も自宅で手料理を食べて欲しいと誘われ、はせ参じたが料理が不味くて閉口したのを思い出す。

また新部長はコンピュータを操作する部署のスキルの低下を懸念し大手コンピュータメーカーから1人をスカウトし課長として迎えた。

しかし、これが今後この会社がブラック化する根源となる。

まず、その新課長の特徴が常に大声で怒鳴りあげ相手を威嚇して服従させるといった私が、これまで遭遇したことのない人物だった。

私は朝が弱く(別に低血圧などでなく)よく遅刻した。

就労規則では月3回以上遅刻をすると、その理由を報告書で上げるよう義務付けられていた。

それは、それで規則なので自分の中で納得していた。

しかし、その新課長には遅刻自体許せないらしく、というか、こんな時にしか自分の威厳を誇示できないか他の社員の前で私を罵倒した。

そのくせ実務レベルのスキルは低くかった。

入社2年目の私が分析したオンラインプログラムを彼の前で説明した際オンラインプログラムの原理(トランザクション)しか理解していなかった。

この人って全くスキルの無いのに何を偉そうにしてるんだろうと増々不信感が募った。

たまに忘年会で話す機会があると

「失敗した。失敗した。」

と愚痴った。

つまり今で言う大企業の安定性からベンチャー企業の高収益性を求めたはずが一向に給与が上がらなかった事に不満があったのだ。

しかし、それを会社の責任にするのは、いかがなものかと思った。

また、こんな事もあった。

あるコンピュータ処理を先輩は自分の経験則でのみ処理しようとしていた。

私は、それに待ったをかけた。

何故ならコンピュータを操作する世界で、その処理内容をチェックせず曖昧な判断で断行しようとしていたからだ。

専門的にはジョブフローも存在せずマクロの吟味もせず断行する事に生理的に抵抗があった。

すべての処理にジョブフロー、指示書、運用マニュアルの3点セットを必ず添付する事を働きかけたのは入社2年ちょっとの私だった。

そういった意味で私は、その部署で標準化に数々、取り組んだ。

ジョブフローの標準フォーマットも、その一つだ。

当時ごく一般のパソコンに必ずインストールされている表計算ソフトの図形機能を使った。

セルの高さと幅を絶妙に調整しB5サイズに一列3ステップを4行と定めた。

その過程でジョブフロー作成ツールを導入する動きもあったが操作方法を取得する手間がかかった。

レイアウトを本人任せにするため非常に成果物にばらつきがあった。

また他人が修正する際その人のパソコンに必ずそのソフトウェアをインストールしなければならない。

そのインストール、バージョンアップの管理を誰が、どの様にするか全く議論せず単純に手書きより楽といった短絡的な考えから始まった。

そこで私は、その動きに対抗するため自らコツコツと表計算ソフトで作成した。

ジョブフローを次々とファイルサーバーに蓄積していき全ジョブフローの約3分の1を網羅した。

そして自然発生的に、その表計算ソフトを使って修正箇所のみ修正したジョブフローがシステム会議の場で提出される様になった。

またプログラム仕様書も同じ表計算ソフトを使って表紙の概要書、関連図、ステップ説明書の3点をセットにし標準化に成功した。

しかし、これらは慈善的な作業だったので考課には全く反映されなかった。

今になって振り返ってみると、もっと前段で問題提起し全員の議論を深めて実施するべきだったかもしれない。

実は、それらを議論するべき素案を提起する様、ある課長の課題とされたが彼は頑なにその課題を先送りし豪を煮やした私が、こういった行動をとった。

その課長は後、私との考課面接で高評価してくれて私は係長になったのは偶然でない。

ちなみに係長になったのは、かなり後で同期に入社した中では一番最後だった。

(追記 2021.7.22)

ここで私の係長時代に少しふれる。

部下は僅か3人の精鋭達だった。

システム管理つまりITインフラを司どった。

と言えばカッコは良いが中々上手くいかなかった。

PC周りの環境整備には苦労した。

丁度インターネットが普及し通信環境が変わっていく最中だった。(専用線→VPN)

だから現行のインフラの維持だけでなく新たな提案も必要だった。

一方、無計画に処理を続行しようとした先輩は課長になってすぐ気分障害で異動する。

つまりコンピュータには緻密さが要求されるが彼の様なガサツな人には不向きだ。

さらに彼は異動先の店舗でも商品発注ミス(ロット単位の見誤りで大量発注をかける)で、また自宅療養の羽目になる。

それと外注とパートをコンピュータ操作要員として雇用したのにも閉口した。

まずコンピュータの周辺機器(プリンタとMTが主)の操作技能の取得に無理があった。

直接パートをマネジメントする羽目になった私の能力不足もあり教えるより自らやった方が楽と勝手に判断したためパートは一日中ぼーっと椅子に座ったままの日々が続いた。

そして、たまに私は「仕事とは」といった抽象的な話をして、それを、そのままノートに書き写していたのが虚しかった。

そして2、3週間で彼女は退職し店舗社員(美人だったので、会社中で付き合いたい男がいた)と結婚し幸せな日々を送っているともれ承った。

一方、外注の方も問題が多かった。

当時、派遣業社があったか不明だが非正社員が、どういった処遇で、どいったスキルで入社したか全くの未知数だった。

一通りOJTしたら、それなりの作業はこなせたが責任感が薄かった。

いくら、この会社に忠誠を誓ったところで、すぐ次の場所に異動させられるという思いがあった。

また感情の起伏が激しく腹が立つとダンボールを蹴散らかして平気で穴をあけていった。

全く紳士的でなかった。

それと特筆すべきは親友になった白石だ。

彼は今で言うパソコンオタクで当時8ビット、ザイクロ製Z80プロセッサを搭載したマイコンでマシン語を使い高速処理のゲームソフトを作成できるだけのスキルがあった。

しかし、そのスキルを仕事に全く生かさず暇さえあればIBM製パソコンでBEEP音を鳴らしてみたり、ふざけてばかりいた。

そういったもんだから、すぐ勤務評価が下がり一人埼玉県にある青果センターのAS/400のお守りを任された。

しかし青果担当の依頼のプログラム作成もそっちのけで、そこでも問題児扱いされ突如、店舗異動を命ぜられる。

そして店舗業務をすることなく退職した。

それ以来、彼とは連絡を取ってない。

そして青果センターに残されたAS/400だが運用は青果担当に委ねられた。

また私が現状調査のため青果センターを訪れた際、残された彼が作成したグラフィカルなスクリーンセンバーが虚しかった。

途中検証

さて、ここまでの話でブラック企業たる要素を検証してみる。

まず大量採用だが急激な雇用が生まれ人員不足による緊急処置だった事が後に判る。

また成長分野だった宅配は劣悪で注文された商品を会員に届けるだけでなく会員の新規加入を募る仕事も、こなさなければならなかった。

現在は勧誘活動の専門職がいるみたいだが当時は、そういった人員を割く余裕がなく強要されていた。

つまり勧誘してくる人数のノルマが課せられ、それに達せ無い者は達するまで帰ってくるなと竹刀を振りかざす上長がいた話は有名だ。

よってノルマ達成のため自ら会費(5千円)を負担し5口や10口も自己負担する社員がいた。

後にマスタから同一名で、同一住所同一電話番号だった会員を抽出する作業に立ち会ったから正確に覚えている。

よって離職者が後を絶たず常に公募する状態だった。

しかも運転免許を持ってない者にも会社負担で免許を取得させていた。

ちなみに同期で宅配事業に配属された同じ大学の者は1年後1人も残ってない。

またコンピュータ部門に全くの素人を配属させるのも検証の余地がある。

今ほどコンピュータ技術が高度でなくメーカーのサポートも手厚かった。
正確にはメインフレームは数億はする機器で、それだけの代価を払っているからメーカーのサポートも当然手厚かった。

そして研修中の僅か3ヶ月で退職する、しかも専門校出身がなどから、もっと事前に自分は、こいった分野に不適切と判断できなかったのだろうか。

これは雇用元も含めた検証材料だ。

また突然の会社解散による人員不足だ。

それは後々まで私の職場の劣悪さを引きずるきっかけになった。

つまり入社1、2年目の社員が時間を掛け、それ相応のスキルを身につけるはずが突然、最前線に立たされ重大な責任を負わせられた。

これはコンピュータに関する専門知識だけでなくビジネスマンとしてのレポート作成や上司、部下とのコミュニケーション能力、プレゼンテーション能力といった分野に及ぶ。

そして、そこには勝者はおらず敗者のみがいた。

当時よく言われたのがコンピュータシステムは

「出来て当たり前、出来なければ自ら去れ」だ。

システム構築とは「予算、納期、品質」を守るのが常識で低予算で済んだ納期が早かった、高品質だった事は高評価にはならない。

そんな厳しい世界だと入社後、随分たって思い知らされた。

だから私の基本給(当時は、残業代が高かったから気にもしなかったが)が20万円以下だった時代が30代後半まで続いた。

今に照らして言えば急成長期の企業は、まず社員が若いためビジネススキルが低く「てにおは」も満足に使いこなせいため職場が混乱している。

責任所在も、はっきりせぬまま見切り発車する。

さらに低所得(社員より株主に高配当が行く構図)といった事が起こる。

最後に人間関係にも触れておく。

ビジネスだから、すべてビジネスライクに繋がればいいかと言えば、そうもいかない。

もっとスキンシップが大事な場面もある。

その距離感が難しい。

そこを誤ると折角、良好だった職場が一気にブラック企業と化す。(つづく)

2014-05-07

第1回 ブラック企業とは私の就労経験から言える事

はじめに

今、ブラック企業と言う言葉が就活情報誌、マスコミ、インターネット掲示板などで良く目にする。

語源は、あるIT企業に勤める若者が発した事が、きっかけと言われている。

それは2000年代になってからの事で私が就職した1980年代には全く無かった。

ではブラック企業の様な劣悪な環境は無かったかと言えば確かにあった。

しかし、その内情は単純なものではない。

その事を判ってもらいたく投稿する。

入社

私が大学生の時、公式に就職活動が認められていたのは10月1日からだった。

しかし私は就職に全く興味がなく勉学に勤しむよりアルバイトに重きを置いていた。

だから貯蓄が100万円以上あり、それを学費に当て留年するつもりだった。

ところが私の数少ない親友の1人が内定が決まったと私に告げに来た。

聞くと100人以上も採用しており自分は1次採用枠で応募したが履歴書と人事担当部長との面接あと縄跳びによる適正検査を経て2、3日で内定通知が来たと言うのだ。

私が就職に消極的だった理由に自分は口下手で競争意識が低く自己アピールなど全くもって苦手で毎日、定時に満員電車にもまれて出勤するなど真っ平御免だった。

しかし親友の話を聞くと結構、好条件な会社である事に気づいた。

まず勤務地が郊外である事だ。

つまり都心に向かう電車と逆の電車に乗るので空席があり座って出勤できる。

採用人員が多く私の様な口下手でも採用される可能性が高い。

更に、これを言ってしまうと会社が特定されてしまうが都道府県ごとに営業活動が制限されており域外活動を禁止する旨を法律で規定されていた。

つまり東京都なら都内でしか働けない訳で都外に転勤がないと踏んだわけだ。

しかし最後の域外活動の禁止については思いもよらない事に発展してしまうが後述する。

そこで私は、この1社のみ、ほんの軽い気持ちで応募する。

これも会社が特定されてしまう事だが当時、よくアルバイトしていた先がスーパーなど小売業だった。

スーパーでのアルバイトの仕事は男なら品出しと値付けだ。

今では死語だが当時は商品の1つ1つに値札(ラベル)を貼る作業があった。

ラベラーと言う特殊器具に値段をセットして連続して値段が印字されたラベルを打ち出し商品に貼る作業だった。

これには、ちょっとしたコツがあり商品をダンボールから出す前に綺麗に商品がダンボールに収まった状態で、その側面に連打して貼っていく。

それをレジで金額を打つ際どこに値札が貼ってあるか見付けるのに苦労させた面はある。

レジは女の仕事とされ全くさせてもらえなかった。

つまり業種も、まんざら知らない分野でもなかった。

しかし、ここで特筆すべきは、この会社が100人以上の正社員を採用していた大きな理由は別にあった。

宅配事業が伸びていたためだ。

これは入社後、知った事だが宅配で商品を注文する際に注文用紙に印字してある商品名の下に注文数を記入する箇所がある。

そこに数字を記入し注文用紙を商品を配達に来た社員に渡せば、その商品が注文した数だけ翌週に届く仕組みだった。

そして、これからが重要なのだが、この回収された注文用紙をOCRと言う特殊な機器に通すと自動的に注文数をデジタル化出来た。

そのままコンピュータで注文→発注→納品→集金を一気に自動化したため利便性がよくなり利用者が増えた。

つまり宅配を担う人材が欲しかった訳だが私は幸運にも運転免許を持っておらず絶対に宅配には配属されないと踏み応募した。

もう一つ言わなければならない事がある。

それは履歴書についてだ。

今でこそプリンタで印字した履歴書を良しとするのは当たり前だ。

当時はワープロなるものが、あった事はあったが高価で個人が買える代物で無かった。

しかし私はプリンタで印字した履歴書を提出した。

何故そんな事ができたか、それは日本語タイプライタなる物を使ったからだ。

これならワープロより安価で100万円貯蓄がある私なら買えた。

日本語タイプライタとは、あいうえ順の入力ボードに1行分の入力内容が液晶に表示され1行入力が終わるごに印字する。

ワープロの様なレイアウトを自由に変更したり画像を貼り付けたり罫線を引くといった機能は全くなかった。

そこで市販の履歴書に神憑り的微細な調整をして履歴書を仕上げ提出した。

(追記 2021.6.24)

日本語タイプライタで思ったのが今のSNSは、正にこれと同じだ。

1センテンスごとに送信するからだ。

寧ろ日本語タイプライタは1センテンス印字して誤字脱字に気づいたら、その用紙は破棄するからまだ良い。

SNSの場合そのまま相手に届くからコミュニケーションツールとして如何なものか。

当時の人事担当部長は私の履歴書をしげしげ見詰められながら

「君、こういうの好きなの?」

と尋ねた。

そして見事に私は2次採用枠で内定をもらった。

それから数ヶ月経ってから正式な所属先が決まったと通知が来た。

コンピュータ部門だった。

その時、私はワクワクした。

それは今までコンピュータなど何の知識もなく未知の分野だった。

が薄々、成長分野だとは気づいていたからだ。

今でこそ派遣社員の巣窟となりブラック企業の温床となり易い分野で有名だ。

が当時は花形職業として自慢できた。

しかし、これも、ご察っしの通り仇となった。

ちなみにコンピュータ部門に配属された理由は例の履歴書のせいだったと自分では分析してる。

しかし親友も同じコンピュータ部門に配属されたのは驚きだった。

また同じ仲間と一緒に仕事が出来るという安堵感もあった。

しかしこの親友とも後に仲たがえする。(つづく)