橘たかし no 皆の仲間: 2019/02/01

2019-02-28

【所感】佐伯啓思著「さらば、民主主義 憲法と日本社会を問いなおす」

私は学がありませんから余り大それた事は言えません。

本書の終章に「コロッケ」の行があります。

人類は生まれた時から「コロッケ」という概念が存在し、あたかも、それが当たり前の様に料理するが、それは人類の過去の試行錯誤の中から生まれた物に後付けとして「コロッケ」と名付けたに過ぎないとあります。

そして、ここが重要なのですが人類に、その「コロッケ」を受け入れる素地があったからこそ未だに廃れず「コロッケ」が存在する事です。

また、こうも述べておられます。

では、その「コロッケ」を調理した際、国や地域によって味や調理法も違っている。

つまり抽象的な「コロッケ」を我々の実生活に取り入れた際は、その国や地域といったところに根差した伝統や継続的価値の方が重要で、それが素になる。

もっと言えば「コロッケ」にソースをかける人もいれば醤油をかける人もいる。

また何もかけない人がいても可笑しくないのです。

最近インドの日常的に食される料理の調理風景を撮影した動画を見るのが好きで、よく観ています。



この動画をみた日本人の感想は「汚い」「日本ではあり得ない」といった辛辣なものばかりです。

しかし先に説明した様に、これはインドの「コロッケ」であって日本の「コロッケ」ではないのですから素直に受け入れるべきです。

もし仮に日本の大手食品メーカーがインドに「これからは、もっと衛生的で美味しい日本のコロッケ」を売るんだと勇ましく進出しても悉く無視され全く売れない公算が高いでしょう。

また追記します。

(追記)

「コロッケ」を例に所感を述べましたが「民主主義」について著した本なのに「コロッケ」は関係ないだろ」と仰る方がいそうなので、もっと直接的に述べます。

日本は憲法に則り「平和主義」を謳っています。

これは先の太平洋戦争の惨事の戒めとしてアメリカが押し付けてきたものです。

それを日本政府は未だ妄信的に信じて実行しています。

そして平和主義を具現化した形が政府開発援助(ODA)という開発援助です。

世界の発展途上国および新興国に公的資金を贈与(一部、貸与も含まれますが)すれば平和主義が実現し国益になるというのが政府の見解です。

つまり平和主義という抽象的な概念を具現化した途端「お金で片が付く」という余りに歪な行動をするのです。

これは、この国の伝統や継続的価値の延長に生まれは概念でない為、こんな行動をとってしまうとしか思えません。

国益が優先なら、まず国民の利益を増やす方策をすべて出し尽くした挙句、まだお金が残るようであれば他国の援助をすれば良いはずです。

国内に生活保護を受ける方が増えています。

それも、まだ働ける若い年齢層が増えていると聞きます。

そして、その財源が足りず財政を圧迫していると政府は危惧している一方で何故、開発援助なのでしょうか。

国益を損ねて世界平和を目指すとは、いったい何の意義があるのでしょうか。

日本の歴史を振り返ると江戸時代、武士が国を治めていました。

ところが貨幣が多く流通する江戸末期になると商人が富を得て裕福になっていきます。

一方、武士は年貢として農民から米を納めさせていました。

しかし米は農作物で天候に左右され度々、飢饉を向え十分に下級武士まで米が行きわたらなくなりました。

その時に武士が唱えた句が「武士は食わねど高楊枝」です。

まさか、この価値観に則って開発援助が行われていると思いたくないのですが・・・


また追記します。