橘たかし no 皆の仲間: 2010

2010-01-19

SF映画「アバター」観たけど面白かった!?

僕は最近、映画館では映画を観ないようにしていたが久々に観にいった。

理由はネットで次の様な記事を読んだからだ。

世界で公開され大ヒット中のSF映画「アバター」を見た観客から3Dの映像があまりにもリアルで、その美しさにあこがれる余り「うつ状態になった」「自殺を考えた」といった訴えがインターネットに相次いでいる。

「アバター」はジェームズ・キャメロン監督が手掛けたSF大作で世界興行収入は14億ドル(約1,300億円)を突破し、これまでの記録を塗り替える勢い。

ストーリーは地球の資源を使い果たした人類が「パンドラ」という美しい星で希少鉱物の採掘を目論み平和を愛する「ナヴィ」の人々と戦うというもの。

観客は3D効果でパンドラの世界に入り込む感覚を味わい映画館を出る時はその美しい世界から離れることの不安感にとらわれるという。

映画を見て人類を憎むようになった現実に絶望したというファンも多くインターネットのファンサイト「アバター・フォーラム」には「パンドラの夢がかなわないという絶望感に対処する方法」というコーナーが登場。

うつ状態に陥ったというファンや対処方法を指南するユーザーから1,000件を超す投稿が寄せられた。

スウェーデンの学生アイバー・ヒルさん(17)はこのサイトに仮名で投稿。

「アバターを見た翌日、目覚めると世界が灰色に見えた。

自分の人生すべてが意味を失ってしまったようだった。

このままやっていく理由がいまだに見出せない。

私が生きているのは死に行く世界だ。」

と書き込んだ。

別のファンサイト「ナビブルー」では自殺さえ考えたというユーザーが

「アバターを見た後ずっとうつ状態にある。

パンドラの素晴らしい世界とナヴィの人たちを見て自分もその1人になりたいと思うようになった。

もし自殺すればパンドラのような世界に生まれ変われるのではないかとさえ考えてしまう。」

と綴った。

こうした状態から抜け出す方法としてファンサイトには

現実の人々とかかわって前向きな活動に取り組む

アバターのゲームをする

映画のサウンドトラックをダウンロードする

といったアドバイスが寄せられている。

ヒルさんも掲示板で同じような人たちと話し合えたことにより、うつ状態から解放されつつあるという。

ニューヨークの病院に勤務する精神科医のスティーブン・クェンツェル氏は

「他者との関係を確立することは人が幸福になる鍵でありネット上の人間関係でも何もないよりはずっといい。」

と話している。(CNN.co.jp)

映画を観て「うつ状態になる」って、どんな映画か凄く興味が沸いた。

昔ヤクザ映画など観ると映画館を出た途端、肩で見え切る格好をして家まで帰ったものだ。

その映画の世界に浸ってしまって、なかなか現実に回帰できなことがよくあった。

最近の新作の映画って、そこまで、その世界に酔いしれることってなく、なんかアラばかり目に付いてしまって嫌になって観るのを止めていた。

だから凄く期待してけど、やっぱりアラが気になって嫌だった。

確かにクオリティは3Dだから高い訳だけど、それもストーリーを追ってくと段々気にならなくなる。

つまり別に画質の良し悪しだけで満足せず内容を重視しすぎる僕の悪い癖かもしれない。

何か、その映画の中にファッションでもトレンドでも新しいものがあればいいが何もないとガッカリしてしまう癖がある。

つまり二番煎じは嫌いなのだ。

そういった意味で、この映画のいろんな要素って以前に、どこかで観たことある点が随所にあった。

まず映画の舞台となる密林のジャングルって「地獄の黙示録」(1979)で既に設定としてある。

あの時も密林のジャングル奥深くに行くうち何か不気味な原住民と遭遇して今までの自分の生き方に大いに疑問符を投げかけるといった展開だった。

当時は確かに高校生で多感だったせいかもしれないが、それが凄く不気味で変な気分になったが、それを思い出してしまった。



ナヴィが他の生物と触角のようなもので繋がるところがある。
あれは「風の谷のナウシカ」(1984)でオームから出る触角と発想がそっくりだ。

それによって意思の伝達があるといった点もそっくりだ。

あと生き物の背に乗るって凄いと思わせるって御伽噺の「金太郎」かと笑ってしまった。

異星人と現代人の最新兵器をつかったバトルって見飽きた弓矢とマシンガンってアパッチvs騎兵隊の西部劇かと言いたくなる。

最後に宙に浮いた島ってオリジナルっぽいが違う。

あれは超現実主義の画家ルネ・マグリッドの「ピレネーの城」(1930年代)に既に描かれていて別に摩訶不思議といった印象も沸かなかった。
まとめると僕は模倣が全く悪いと否定しているわけでない。

まず過去の作品に影響を受けて、それ調のものになってしまうのは仕方のない。

だが、それを超える何か斬新さがやはり欲しい。

SF(サイエンスフィクション)だったら見るものなすこと最新で目新しいものであって欲しい。


未来って、こうなるのかといった新しい発想が欲しい。

実は現実でも人間以外の生物に目を転じると何で、そうなのかよく分らない生き物って結構いる。

たとえば「カモノハシ」は哺乳類なのに口ばしがあって乳首がなくてといった生き物だが変わってると思う。

つまりダーウィンの「進化論」が正しいなら現実に最も適合した生物が一番偉いわけだ。

しかし、その過程で絶滅した生き物も沢山いる。

そういった生き物のことを調べると何で目を三つにしたのだろうとか逆に目が二つは適正な数なのかといった疑問が沸いてくる。

だから「トータルリコール」(1990)は何か登場人物が妙で気に入って何度も観た記憶がある。

2010-01-13

もしかして、パンドラの箱、開いちゃった? - I think that the pandora's box already open.

今この世を席捲してるもの、それは半導体(IC)と輸送機器(車、船、飛行機)だ。

別に、この世を構成しているものは、もっと、さまざまで不可欠なものといえば住居・食品・電気・水・ガスもろもろ、といったものがある。

肝心の、というか主体である人間および、その他の生物および植物や自然界は当然存在する。

一体何が言いたいかというと今の世界でG2やG7やG20が価値のあるものとして厚い視線を送っているものは何かを言い表しただけだ。

そんな事は、どうでも良いと言うか何が言いたかったというと今世の中のベクトルは悲しいかな速さに向かっている。

通信速度、乗り物の速度・・・つまり自らが知り得たいことは早く知りたい明日ではダメで今日中でないと、とか明日着くんじゃなくて今日の夕方までが良いといった具合だ。

こんな事は僕が言い出さなくても、この世が生まれた時から始まってる事で太古の人は追いかける獲物に少しでも近づきたくて、もっと足が速ければと思っただろう。

そんなこんなで始ったスピード競争も到着点まで実は行き着いた感がある。

と言うのも今の物質の移動で最もはやいものは確か光だったはずだが

「一秒間に地球を7回半廻る」

速度で進むはずだ。

そもそも人間は、この光の速さに行き着くため日々血眼になって研究を重ね、その過程で生まれた、いくつかの研究成果が最新テクノロジーとして世を席捲しているが、その競争原理も、そろそろ通用しなくなってないか。

つまり既に得てしまった感があるからだ。

後は、その速さを駆使し何とか利益を得たいところだが皆が皆(この話には悲しいかな、この恩恵に、まだ恵まれてない方々のことは、全く考慮してない。)この最新技術を駆使してしまっている以上常に衝突を繰り返し逆に停滞してしっまっているかもしれない。

つまり何もない真空を直進する光が一筋なら早かろうが、そういった光が、いろんな方向から射せば常に衝突がおこり速度は低下する。

コリジョンだ。

もう一つあげた輸送機器だが更に遅くて渋滞することは市中の交差点や港や空港を見れば一目瞭然だ。

だから経済的でクリーンな方がいいという話に、すり替わっただけかもしれない。

「だから焦っても仕方ない」そんな感が世に溢れ出し始めたかもしれない。

だからパンドラの箱が開いたと著した訳だ。

何か情報格差について言いたかったが話が別の方にいってしまったが、これも真実のような気がしてならない。

出世の3大要素に「早寝・早食い・早糞」が言われ続けてきたが、もうそろそろ「遅寝・遅食い・遅ウンチ」でもライフスタイルとしては悪くない気がしてきた。

健康にもよさそうだし・・・

2010-01-06

「生きる」とは

日本では年間3万人以上も自殺者が過去12年間、連続で発生している。

普通、人間が死を決意する時の気分は躁と鬱で言えば鬱なはずだ。(薬物中毒などによる精神錯乱状態の人は除く)

アメリカの心理学者アブラハム・マズローは所属と愛の欲求(情緒的な人間関係・他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚)が満たされない時、人は孤独感や社会的不安を感じやすくなり鬱状態になりやすくなると説いている。

よく第三者からは「快活で真面目そうな人だったのになぜ。」といった意外な思いをされがちなのは生理的欲求(生命維持のための食欲・性欲・睡眠欲等の本能的・根源的な欲求)や安全の欲求(安全性・経済的安定性・良い健康状態・良い暮らしの水準など予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求)より高い欲求が満たされなかったためだと「マズローの欲求段階説」から説明できる。

「マズローの欲求段階説」とは人間の基本的欲求を低次から

(1)生理的欲求
(2)安全の欲求
(3)所属と愛の欲求
(4)承認の欲求
(5)自己実現

の欲求の5段階に分類し人間は満たされない欲求があると、それを充足しようと行動するとし、その上で欲求には優先度があり低次の欲求が充足されるとより高次の欲求へと段階的に移行するとする説だ。


つまり、この説から日々の衣食住に汲々して生活する人たちや、その一段階上の健康で経済的にも安定した暮らしがしたいと望む人たちからは自殺者は生まれにくく第三者からは「幸せそう。」といった印象の人が、さらにもう一段階高い欲求が満たされないため自殺してしまうと解釈できる。

だから逆に第二段階の欲求までに留まっている人が実は大多数なのも事実で、だから年間3万人なのかもしれない。

さらに補足すると実は現段階で

(1)生理的欲求
(2)安全の欲求

が満たされてなくても一度でも

(3)所属と愛の欲求

が満たされたことがある人なら、その錯誤した欲求不満から自殺してしまう人もいるかもしれない。

つまり、あまり自らの今、欲しているものを上手く見出せなくなってしまうからだ。

つまり日々の暮らしに窮している最中にも関わらず自分の欲求は、そこにはなく「愛」に生きるといった変な勘違いをしてしまっている人を指す。

だから逆に今自分は何に不満を感じているか、この欲求段階にあてはめて整理することも得策かもしれない。

たとえば旦那の浮気が許せないと憤慨しているとすれば

(3)所属と愛の欲求

ないし

(2)安全の欲求

が不満なのか判別してみる。

そうすると旦那との愛の絆が崩れた、つまり旦那との信頼を失うことに不満なのか旦那が別の女性に愛情を移したことにより自分の安定した生活が不安定になりはしないかといった経済的なものなのかといった判別だ。

もし後者だとすれば

(2)安全の欲求

が満たされてないと判断すればいいから、その欲求を満たすにはと思案すればいい。

ここを

(3)所属と愛の欲求

が満たされてないと判別を誤れば、いつまでたっても答えは出ないだろう。

まして旦那から「最近、太ったんじゃない。」と言われ奮起して始めたプロテインダイエットが全く功をなさないことに憤慨しているのであれば、その日だけでもワインでも飲みながらたらふく食べて、ぐっすり寝れば

(1)生理的欲求

が充分に満たされ意外と翌朝は「ケロッ」として昨日までの苛立たしさを忘れているかもしれない。

まとめると鬱と感じたら、まず、その要因を探ることだ。

それを放置すると病的になり、いったい自分は何に悩んでいたか考えが錯綜してしまうはずだ。

つまり時間が過ぎれば過ぎる程いろいろな要因が重なり、ただ重圧だけが残り、その解決の糸口すら見失ってしまいがちだ。

だから不快に感じたら直ちに、その要因を探り自分なりに解釈して不快感をなるべく残さないで生きる癖をつけるべきだ。

最後に子供の自殺も近年多発している。

社会的責任を問えないだけに心が痛む。

だから親には、もっと、わが子との繋がりを密にして欲しい。

つまり日々の会話なり触合いから、そいった行動への予兆は必ずあるはずだから、なるべく、それを早期に察知して欲しい。

つまりマルローの説を信じるならば

(3)所属と愛の欲求

が欠乏しているわけだから、それを充足させる行動をとらなければならない。

もっと簡単に言えば子供が最後に帰る場所は親元でしかない。

その最後の砦を潰されたら、だれだって人生に嫌気をさすはずだ。

だから、どんなことがあっても自分はお前を信じると言ってやるべきだ。

なぜなら子は自らの意志で、この世に生を受けたわけでないから最後まで親が責任を負うべきである。

2010-01-05

今年の展望

謹賀新年、明けましておめでとう御座います。

今年は、僕にとって本当に当ブログを始動する最初の年になる。

去年の8月から始めた、このブログの新年初頭だからだ。

ブログとは、その作成者の今の思いを綴った足跡の様なもので後で読み返すと、その当時は、よくもそんな事を書けたものだと赤面してしまうことも、しばしばだろう。

しかし、そこは挫けず、これからも書き綴っていきたい。

皆さん今年も宜しくお願いしたい。

さて前置きは、これぐらいにしてズバリ新年初めという事で、今年の展望を述べたい。

今、日本国民の大多数は今年こそ景気がよくなって欲しいと切に望んでいるはずだが果たしてそうなるだろうか。

答えはノーである。

理由は簡単である。

余りに景気を判断する指数が悪すぎるからだ。

景気DI  24.7、前月比 ▲0.2(2009年11月)

これは帝国データバンクが発表した景気動向指数だが0-100を範囲として50を中心に今、景気はどれだけの位置にあるか示したものだ。

まず24.7って50を大きく下まわっているが、こんな状態は、もう5年以上は続いていると思う。

つまり、もともと景気って悪い状態が続いていて、それが何時から上向くかだけが何故か焦点になってしまって前月比および前年同月比がプラスに転ずる事のみに注目が集まっていたと思う。

だが、その現状を示す指数の方は50が景気が普通を指し示すなら、その半分以下なのだから、どれだけ景気って悪いかがお分かりになると思う。

だから、いくら前月比および前年同月比がプラスに転じたからといって、まだ50への道のりは遠いのである。

そして何時か50を突き破って、やっと「今の景気っていい。」と言い張れる。

道は、まだまだ遠いのである。

とは言っても今年の展望は何もないのか。

何か明るい材料はないのかといった暗い気持ちにならないために次の事を今年のトレンドとして据えれば上手くいかないか提案したい。

薄利多売的な発想を止めよう。

「大量生産、大量消費の時代は終わった。」ことを再認識したい。

つまり皆、画一的なもの・価値観には飽き飽きしていると思う。

これは、かなり以前から言われている消費者の欲求の多様化といった意味とは全く違う。

つまり以前から、これだけ大衆化が進めば消費者の欲求も多様化する。

故に同じ商品でも多少、形式を変えたりカラーを豊富にしたいりして少しでも消費者の細かいニーズに対応しようといった概念だった。

しかし僕が言ってるのは、そんな些細なことではない。

実は、これは生産者からは重々わかっていたことで画一的なものは売れない。

故に「個性を」と叫び続けたが実はベースになる事は全く変えられなかったはずだ。

たとえば、あるコンセプトカーがヒット(○産○ーチなど)すると量産に走る。

そうしないと売れる→生産増→売れるのサイクルが生まれないからだ。

それが収益を上げる鉄則だからだ。

だが、この車を既に購入して乗り回している人は対向車線からくる同じ車をみて心でこう思っているはずだ。

「巷に僕と同じ車がやたら増えた。故に個性がなくなった。故に嫌だ。」

これは、○産○ーチが○ヨタ○ローラに成り下がった瞬間である。

つまり売れた瞬間から消費者の熱は冷めてしまうのだ。

また最近のこの熱の冷め様が異常に早い。

つまり昔であれば価値観を共有する喜びもあった。

そうした新しいコンセプトに賛同する人々が増える事によって世の中に「自分達の価値を認めてくれ。」といったアッピール・メッセージ性があったからだ。

たとえば反体制的といった意味合いで強いメッセージ性を帯びると大衆は皆なびくといった感じだ。

しかし今はそれが全くない。

何故か。

僕は、かなり以前ビックリしたことがあった。

ずっと何かアイデア商品ではないが新しいコンセプト商品を発案して、それを企業に売り込めば一儲けできるといった風潮がった。

故に僕も考えた。

その時発案したのが小型洗濯機だ。

サイズはちょうど浴室の隅に置ける位で、ちょっとした下着類なら、そこで入浴のついでに洗濯も済ませればいいのにと思った。

当時、一人暮らしで1DKに住んでいたが休日に約一週間分たまった洗濯を一機に洗うのが面倒で仕方なかった。

洗濯機は古く2層式で常に洗濯機に張り付いてないとダメで、洗濯だけで一日終わってしまって何か侘しい気持ちになったものだ。

まだ全自動式は高価で買えなかったし大容量のものしかなく設置場所がなかった気がする。

だから途中からは近所の銭湯の横のコインランドリーにでかけて1回200円の方でなく1回300円の大容量の方に洗濯物を突っ込んで洗っていた。

でも充分に洗濯しきれてなくてワイシャツの脇の下が黄ばんだまま着て会社にでかけていた。

だから時々クリーニングにも出すが一度黄ばんでしまうと、その黄ばみはとれなかった思う。

あれって一週間も洗濯物を放置すると汚れが繊維に染み付いてとれにくくなるんだなと後で分った。

だからワイシャツ一枚くらいは毎日洗えるくらいの小さな洗濯機があればと思った。

だかそんなもの全く商品化されず「僕だけかな。」と思っていた。

友達にも、その商品化の話をすると全く賛同しなかった記憶がある。

しかし、そんな時ある新聞の新商品の紹介欄に確か○菱電機だったと思うけど商品化された記事が載っていた時は驚いた。

最初は先を越された的な気分で憤慨した。

しばらくして「やっぱ一人暮らしで同じ様な悩みの人っているな。」とちゅっとホットもした。

しかし僕は、その洗濯機を買わなかったし全くその洗濯機は売れなかったと思う。

何故か。

僕が、その時に思ったことは天下の○菱電機ですら、そういった売れるか売れないか微妙なものを商品化する。

今、巷にモノって溢れてるし、そんなモノすら商品化しないとモノって売れない時代なんだなと思った。

また何か僕のオリジナル的発想が既に大企業も察知している。

何か嫌な気がして後、どこかそんな気持ちで世のモノの成り行きを眺めていくと何時からか気持ち悪くなってきた。

つまり、ちょっと脅迫概念的に消費に走りすぎてきる自分がいたからだ。

つまり、今の自分の部屋の中を眺めて必需品以外ってどれだけあるか考えてみた。

なんかゴミの山の様に見えてきたからだ。

テレビ3台(僕用・妻用・娘用)
パソコン2台(僕用・娘用)
自転車3台(僕用・妻用・娘用)
電動アシスト式自転車1台(妻用)
カラープリンター2台
DVDプレイヤー1台
ビデオデッキ1台
携帯型ゲーム機3台(内1台は今、捜索中)
据置型ゲーム機3台(僕用・娘用)
携帯電話6台(僕用・妻用)
CDラジカセ3台
ラジオ2台
電卓5個
エヤコン3台
全自動式洗濯機1台
掃除機1台
携帯型ゲームソフト30本以上
据置型ゲームソフト10本以上・・・

特に携帯電話は酷かった。

○コモのNシリーズ。

新機種が出るたびに買い換えてた時代があった。

別に旧機種で不自由してた訳でもないのに何か新機種じゃないと気持ち悪い自分がいた。

最近は車かバイク(AT)どちらか買おうか迷っている自分がいる。

つまり、今って何か新製品が出ると高いから売れない。

しかし政府の支援(エコポイントなど)などで価格が下がり消費が生まれる。

すると「うらやましい」感が生まれて廉価版が出て爆発的に売れる。

そして価格が下がり全世帯に普及する。

また別の新製品が生まれといったサイクルだが、それってもう飽き飽きした。

このサイクルって古くは昭和30年代のテレビ・冷蔵庫・洗濯機の3種の神器に始まる。

僕が、はまったのはビデオデッキ(5台は買ってる。価格99,800円○ャープ→50,000円○ナイ→9,800円○ナイ→30,000円ソ○ー)→テレビゲーム機(n→n→N→S→S)→パソコン(T→I→I→?→P→H)→携帯電話(N→N→N→K→SN→SO→II→T)てな具合だ。

これからは、このサイクルにお付き合いするのは、もう止めようと思っている。

何か最近は、またオーディオがブームになる気配だ。

が僕は既にCD音源に慣れ別に今さら重低音がどうのこうのなど、お付き合いする気はサラサラない。

もっと消費を僕自らの正直な欲求だけで堪能したい。

だから売る側も、もっと静かなブームを醸しだして欲しい。

僕の知らぬうちにブームも去って何か浮世離れした生活を今年はしたい。

25年くらい前、泉昌之という漫画家の作品で部屋中が通販商品で埋め尽くされて生活していたが最後は発狂してすべて破壊するシーンがあって最近よく思い出す。

年末年始(12月28日-1月1日)は帰郷して実家で過ごした。

旧家で隙間風が冷た過ぎて風邪気味になった。

携帯電話もパソコンもなくテレビゲームもなくビデオもDVDもなく。

アナログテレビだけで過したが何不自由しなかった。

逆に大晦日は雪が積もり娘と雪合戦したり雪だるまを作った。