橘たかし no 皆の仲間: 2017/02/01

2017-02-14

電子書籍の失敗

今回は「電子書籍の失敗」と題して論じたい。

今回取り上げる電子書籍とは紙を媒体としないパソコン、スマホ、タブレットで手軽に本が読めると称したものだ。

ただしコミックと雑誌に関しては又、別の機会にお話ししたい。

今回、お話ししたいテーマは以下の3つだ。

デバイスの誘導の失敗

電子書籍が本格的に登場したのが2010年にアップルがiPadを発売してからだ。

スタイリッシュな約10インチのiPadの画面のページを捲る仕草がカッコいいと話題になった。
そして追随したのがAmazonのKindleと楽天のkoboだ。

価格は8,980~12,800円で、もっとハイスペックで高価な機種もある。
一方GoogleはAndroidのGoogle Playから書籍を読むことができる。

つまり電子書籍を読みたいが、どうすれば読めるか読者に誤った認識を与えてしまった。

これらのハードウェアを買わないと読めないと誤解していた人は多いはずだ。

企業の目論みもソフトウェア(電子書籍)を売りたい訳ではなく、むしろハードウェア(デバイス)を売る事で収益を延ばしたいと考えていたはずだ。

電子書籍のTOPページには、これらのデバイスの広告ページが大きく掲載されPC版アプリケーションのダウンロード方法のお知らせは画面のずっと下の端の目立たない場所にしかない。
PCで手軽に電子書籍の利便性を堪能してから、それならもっと高性能な専用端末でも買ってみようかと読者を誘導すればよかった。

しかし逆の戦略を取ったため未だに裾野が拡がらないのではないか。

コンテンツの不作の失敗

デジタル・コンテンツを立ち上げると必ず、そのコンテンツの豊富さが気になる。

豊富であればあるほど多様なニーズを取り込めてユーザーを増やすことができる。

しかし提供者からしてみればコンテンツを増やせば良いことは分かっているがコアなユーザーのために無尽蔵に費用をかけられないジレンマがある。

1回しかダウンロードされない作品と100万回ダウンロードされる作品に掛かる費用は同じはずだ。

したがって100万回ダウンロードが見込まれる作品を増やす事に腐心する。

具体的には「異邦人」(カミュ著)だ。

Kindle、Koboで検索すると、こうなる。

こんな著名な本ですら電子化されてないので全く利用する気になれない。

(追記)

2020年『異邦人』が電子書籍化されていた。

ただしコミックで何か複雑な心境だ。


火花(又吉直樹著)とか、どんどんダウンロードしてもらって寝てても儲かるビジネスモデルを目指しているとしか思えない。

その点Googleは偉い、ちゃんと有る。
でも駄目だ「砂の女」(安部公房著)は、どのサイトでも扱っていない。
不確かな話だが本を電子化する費用は印刷するのと余り変わらないと聞いた事がある。

しかも紙の本の場合、再販制度(再販売価格維持制度)のせいで値引きしない。

つまり売れ残った本は出版元に返品してしまえば在庫を抱えずに済む。

さらに一度売れた本も買い取って古本として売る事ができる。

つまり本をいつまでも捨てずにリサイクルする文化が日本にはあるため紙の本の数の多さには驚かされる。
たとえば「哲学的」(南伸坊著1985)をAmazonで見つけたりするとハッする。

「こんな本まで、まだ残ってるんだ。」と感動してしまう。

だから電子書籍にも、ついつい期待してしまうがあるはずがない。

理由は簡単で電子書籍には再販制度が適用されないため値引きが可能だ。

しかもコンテンツ保護から転用は違法だ。

したがって利益が出るうちは値下げするだろうが、それが原価以下になってしまったらサイトから削除するしかない。

したがってアップロードしていたかもしれない本が検索した時には削除された後だったかもしれない。

まとめると日本では余りに古本の数の豊富さに同じ感覚で電子書籍を検索してしまうと残念に思う。

だから電子書籍は日本では根付かない。

無料に頼りすぎた失敗

インターネットが生れて20年以上たつ。

そもそもの出発点から無料のオンパレードだった。

インターネット閲覧ソフトですら無料でMicrosoftはIEを配布しまくった。

GoogleのYouTubeは無料で動画を楽しむ事ができる。

ゲームソフトも言うに及ばない。

そして本も地道に著作権の消滅した作品からテキスト化していた団体がある。

青空文庫だ。

私は、このサイトを初めて知った時、書店の角川や新潮、岩波文庫はなんなんだろうと不思議に思った。

つまりインターネットは、どうしても只だという癖がついてしまって、よっぽどでないとお金を払いたくない。

そして電子書籍のサイトを観て愕然とした。
無名の作家のコミックや小説を無料で読ませている。

企業の魂胆は、ある程度のアクセス数を稼いだ作家から徐々に有料化にシフトさせるつもりだろう。

だが、その数は半端じゃない。

普通の書店では新しく本を買う動機として、よく言われるのが平台にうず高くつまれ帯に著名人の煽り文句と作者の写真を載せてある事だ。
しかし画面に整然と並べられた表紙を見せられて何を基準にクリックすれば良いか戸惑ってしまう。

つまり古くから読まれた古典と新たな作者の本はすべて無料なため、ただ書店に置かれた本を電子化したものしか有料化できない構造になってしまっている。

言い換えると既存の出版社の様なノウハウが無いため自らが新しい本を作り出す能力がなく、ただ電子書籍を提供するプラットホームを構築したに過ぎないのが現状だ。

まとめ

本を物理的な観点でしか捉えなかった節がある。

文庫本くらいな大きさのスマホやタブレットに何百冊という本を持ち運んで読める。

故に利便性が高く爆発的に普及するのではないか。

しかし普及していない。

何故か。

それは、もともと愛読家は書斎を持っており、その書斎が手のひらに乗るサイズになればなどと願ってもいない。

また逆に手のひらに乗るサイズなら愛読家になっても良いと思う人も中々いない。

最近、感じる事に余暇の概念を誤ってないかという事だ。

1日24時間の内8時間を睡眠、8時間を会社ないし学校となると残り8時間が余暇になる。

しかし1時間を食事、1時間を入浴、0.5時間を排便と言ううちに実質の余暇時間なんて5時間もない事に気づく。

生涯のうち読書に費やせる時間は余り多くない。

しかも

「私は1日に3冊は本を読む。」

と豪語する評論家どもを見掛けるが、そういった体は評論家という肩書があるから自分の論ずる内容に信憑性を持たせようとポーズしてるに過ぎない。

一般人に、そんな時間も有益性もない。

今でも流行っているか知らないが速読術なるものもブームでしかなく速く読めたから何か利得があるか再検証する必要がある。

つまり何でもかんでも読書していれば賢いという押し付けだけでは今後も電子書籍は普及しない。
有益な古典(ケインズやトクヴィル、福沢諭吉など)を読めば、ことたりる事なのに・・・