橘たかし no 皆の仲間: 第3回 ブラック企業とは私の就労体験から言える事

2014-05-09

第3回 ブラック企業とは私の就労体験から言える事

想定外の都落ち

突然、異動が決まった。

場所は埼玉県所沢市の生鮮センター、同期が先発で赴任していて、その交代要員だった。

コンピュータ部門で出世したいのであれば必ず経験しておいて欲しい部署として新部長は判断していたらしい。

しかし、ここが後にお荷物というか超ハイパー約束違うじゃん的処置をされる。

つまりコンピュータ部門外しだ。

将来的に不況に突っ込んで行く過程で正社員を常駐させるには経費が嵩むお荷物部署となった。

前回、少し話した青果センターと同じ扱いだ。

つまり青果(野菜)生鮮(肉・魚)をパッケージし値札を貼って店舗、宅配センターへ配送する拠点を制御するコンピュータを誰がお守りするかが問題となった。

経営陣は経費削減を求めるが、お守りには、それなりの専門知識が必要で、そうは言ってもコンピュータ部門の正社員を常駐させるにはコストが合わなかった。

そこで青果センターは全くもって専門外の一般社員に担当させた。

生鮮センターは元コンピュータ部門の正社員の中の超問題児(誰ともろくに話ができない超コミュニケーション欠如者)を常駐させる事で落ち着く。

ちなみに彼は、そこで20年間、毎日、毎日同じコンピュータ処理を繰り返す作業に耐え見事に係長に昇格する。

しかし、これは後談であり私が異動した当時は出世するための通過点でしかなく約1年から半年で本社に戻れた。

異動してみると私と同期だった富樫と生鮮センターのコンピュータ部門専属枠で入社した岩淵とパート職員が2名居た。

場所は最寄り駅が西武池袋線の所沢駅からバスで30分で東武東上線の志木駅からだとバスで20分のところにあった。

まず、この立地が私を苦しめた。

朝9時に第2便の納品書出力と言うのがあって当番の1人が、朝9時までに出勤して対応する事になっていた。

もし遅刻すると、その出力がスットプする。

のみならず出力される店舗ごとの納品書を控えとトラック運転手に渡す分に剥がす。(2枚綴りだから)

そして非常階段を駆け下りて(事務所は2階にあった)商品を満載したトラックが冷蔵室に向かって後ろ付けされた場所までダッシュしなければならなかった。

おまけに、その納品書を出力する前に訂正伝といって発注通り生産できなかった商品の訂正数を入力すると言う前処理が必要だった。

だから尚更、午前9時出勤が厳守された。

つまり出荷がスットプし店舗の入荷が遅れ各店舗で入荷を待っている正社員、パート、アルバイトを遊ばせるというか開店に間に合わないとロスになる訳だ。

ところが、ご承知の通り私は朝がダメで、しばしば遅刻しそうになったし遅刻した事もあった。

まず遅刻しそうな時は最寄り駅(志木駅)からタクシーを飛ばした。

宮原交通、忘れもしない。

タクシー運転手と親しくなり過ぎて乗車した私の顔をみただけで黙って生鮮センターまで向かってくれた。

焦っているのを百も承知で実際は余り意味は無かったが裏道らしきルートを通るタクシー運転手がいた。

また車内に携帯テレビを持ち込んで、それを観ながら運転する超脇見運転、交通違反すれすれタクシー運転手もいた。

運賃は勿論、自腹だった。

因みに通常であれば送迎バスがあり、それを利用するのだが1便しか運行していなかった。

それを逃すと路線バスだが、まず都合のいい時間帯には来なかった。

確か路線バス運賃は交通費として支給されていたので送迎バスを利用すると、その差額がまるまる儲けになった。

そして遅刻した時は怒られた。

まず富樫それと情報処理担当課長、挙句は生鮮センター長(のち常務理事)に罵倒された。

よって、まず、この時間の縛りが嫌だった。

後に私がシステム開発部門に配属された際は部長に対し

「システム開発とは四六時中、頭をフル回転させる仕事なので休まる暇がない、よって勤務体制をフレックスタイム制にせよ。」

と労組を通さず直談判した。

当時フレックスタイム制を採用している会社は少なく労組としても、どんなメリットがあるか理解不明のまま了承した。

話を戻すと職場環境も劣悪だった。

まず肉と魚の異臭が2階の事務所まで漂っていた。

それは血のりが着いた作業着のまま社員が平気で闊歩していたからだ。

後に改装され密室になったが当時はコンピュータを操作するフロアをパーテイションで区切っただけの場所で商品検査も行っており薬品か何かの激臭がして閉口した。

また食事は食堂が同じフロアにあり日替り定食とカレー、うどん、ラーメンしかメニューは無かった。

ご飯は自分でよそおい、お替り自由だったがジャーを開くと古米の異臭がし食えた物でなかった。

あとパン、ジュース、タバコの自販機があった。

そして食後、男子は10畳位の休憩室にごろ寝していた。

そのセンターの情報処理担当課長など昼12時半から午後3時まで平気で仮眠していた。

私は何か不衛生でノミがいそうで嫌だったので1度も足を踏み入れた事がない。

帰宅も定時の送迎バスがあったが利用した記憶は少ない。

路線バスかタクシーだった。

終電が終わった後にタクシーを利用した際は長距離利用者が珍しく運転手は舞い上がっていた。

また、しばしば領収書をもらい忘れて出金伝(科目:通信交通費)が切れずに泣き寝入りした。

話を異動した頃に戻す。

同期の富樫の私に対する態度が豹変していたのは驚いた。

新人研修中は東北出身の朴訥な温厚な奴だった。

だが恐らく岩淵が、それまで構築したコンピュータの運用環境が劣悪だったので、それを改善するのに躍起だったのだと思う。

それ位、酷かったのは私も納得した。

JCL(マクロ化もされてない処理が存在した。)が意味なく細切れにされていて、どの順番に起動していけばいいか、そのシステムを熟知してないと無理だった。

それを岩淵は全く専門知識が無かったせいか有り難く言われたまま繰り返すだけしかしていなかった。

もっとコンピュータなんだから機能を駆使して自動化すれば意味無く残業したりせずに済むはずが、そうでなかった。

確か岩淵が自作した作業順番表(そこに命名されたジョブ名が3文字だったり5文字だったり命名規約が全くなかったから覚え辛くてしかたなかった。)なるものを頼りにジョブを起動していった。

それを富樫は命名規約を決めマクロ化やジョブグループ化などして最適化、最効率化している最中だったから目が血走っていた。

だから常に私に対して上から目線で命令口調に変わっていた。

と言うか彼とは、ずっと仕事を共にするが常に上司からの期待が大き過ぎてテンパッタ状態だったから周りに威圧的だったのだと思う。

だだオタクなので同じパソコンオタクの棟方とパソコン談議で花が咲き、その時は口が綻んでいた。

アルコールが入ると「とんちゃん」「ちゅんちゃん」と呼び合う陽気な奴だった。

因みに岩淵はコンピュータ分野では全く才能を開花することが無かった。

本社コンピュータ部門へ異動となり才能が無いから誰からもプログラミングすら頼まれず、ぶらぶらしていた。

ところが何かを自覚したのだろう。

会計や財務といった分野の勉強を職務中に、こそこそしだした。

そこで培った知識が買われて部長が経営戦略担当理事に就任した際、腹心として抜擢され、のち課長に上りつめた。

つまり人材と仕事のバランスが不均衡だったため能力の高い奴に仕事が集中し、そうでない奴は暇を持て余すといった事が職場で起こっていた。

そこで余った時間があった奴は自己啓発に費やし新しい道を見出した。

面白い話があった。

本文とは全く関係ありません
また部長の趣味で才能ゼロの可愛い子ちゃんが異動してきた。

彼女は僅か0.3人月の作業を半年間も完結出来ぬままでいた。

毎週火曜日の全体会議で今の自分の仕事の進捗状況を報告する。

だが彼女は毎回、同じ話を繰り返し全く進捗がなかった。

それが全く問題にならなかったので私が上司に抗議した。

その上司は黙って彼女の代わりにその作業を半日も掛けずに仕上げた。

その後、彼女にどんな軋轢があったか知らないが数週間して退職した。

話を生鮮センター時代に戻す。

コンピュータのオペレーションには慣れたが、ずっと慣れない事があった。

帳票配布だ。

数十種類もの帳票が出力されるが、それを帳票タイトルを頼りに担当者の机に置いて回る作業だ。

だが帳票によっては誰に何部渡すか同じ帳票を部数ごとに切離す(連帳だったので)のには苦労した。

また机に帳票を置くと、お茶やコーヒーを溢す奴がいて

「ゴメン、出し直して。」

と平気で言う奴もいた。

課長クラスの奴ばっかだったから文句も言えず再出力する。

帳票イメージを保存していれば、まだ楽だ。

だが保存してないとなると入力データをコピーするかジョブの途中から流してデータを作りプログラムから作表するのが超面倒だった。

そこで私の提案だが整理ケースを用意して、そこに部署名と担当者名を記入したステッカーを貼り、その各引出しに帳票をぶち込む様に改善した。

そして運用し始めて判った事は暫く経つと引出しにある帳票が溜まり始めた。

つまり全く使っても無い帳票をダラダラ出している事が判明し無駄もなくせた。

それと参ったのが毎月の締めの商管表の出力だ。

まず締めの仕入伝が集まらない。

各担当者は自分で抱えたり訂正伝や返品伝を出し忘れたりと商管表の再出力など度々あった。

それでも多額の不明ロスが出て生鮮センター長が最終チェックするのだが自分の勤務評価に繋がるから細かいとこまで突っ込んで質問して来た。

コンピュータの誤動作で数字が狂ったとか、とにかく難癖をつけられた。

仕入伝のパンチングは好きだった。

始めこそテンキー入力に不慣れなため時間が掛かり入力ミスも多かったが次第に慣れテンキーを見ずに入力できミスも減っていくと

「単純労働ってなんて楽しいんだろう。」

と、しみじみ感じた。
年号事件

私が生鮮センターで働いてる最中に昭和天皇が、ご逝去された。

そして年号が昭和から平成になった。

ここでコンピュータでの大問題が日付だ。

つまり今まで日付を和暦と西暦を混合して使っていた。

それはシステムを構築したのが昭和時代だったから日付の加減は和暦でも西暦でも問題なくできた。

ところが年号が変わると数字がゼロにリセットされるから和暦が極力使い難くなってしまった。

そこで会社の方針として日付をすべて西暦に切替える事となった。

すると和暦で日付していた場合、桁数が2桁から4桁に増える(1999年までを想定すれば2桁で構わないが近々に2000年を迎えるから、これを期に4桁にする考え方)となると1レコードのレイアウトの変更が必要になる。

ただし空き領域があれば、ましな方で空き領域がなければレコード長が伸びファイル領域の見直しまで迫られる。

どのファイルの1レコードの何桁目から何桁目が日付なのか洗い出しから始めなければならない。

レコードレイアウト設計図などドキュメントがあれば助かるが作成しない場合がある。

またジョブ内でソート(分類)で日付がキーになっているとキーの指定位置と桁数の変更も必要になってくる。

プログラムの変更も当然、必要になってくる。

また切替えのタイミングも非常に難しい。

入出力媒体(主に紙)の表示ないし記入を何時から切替えるか調整が必要になる。

という訳で前にも述べた、ずさんな管理をしていた生鮮センターのシステムは、ろくなドキュメントがない為、困難を極めた。

私は正直、無理だと尻込みしてしまい全部、富樫に任せた。

彼は、それに答えようと必死だった。

過程は省略する。

結論だけ言うと大失敗だった。

今でも覚えているのが全くデタラメな結果になった生産指示書を出力してしまい復旧する目処も立たない中、生産時間が来た。

生産工程の担当者が何の騒ぎもなく日常通り、その帳票を持ち帰って生産を始めたのには驚いた。

彼らにとっては値が誤っていようが生産することが重要で誤った数の商品が店舗や宅配センターに届いても全く商品が届かないより益しと言った判断だった。

訂正を後ですればよしとしたのだと思う。

検証

期間にして半年位だったと思う。

しかし、ここで多くの経験を積む事となる。

ブラック企業とは何か話すとすれば劣悪な環境もブラックの要因だと思う。

劣悪な環境なのだから、それなりに給与を高額にすべきだが全く考慮されてない。

本社もセンターも同じ給与体系だ。

若干、本社の方が就労時間に比べ有給休暇が少なかった気がする。

さらに生鮮センターには生産工程だけでなく原料工程という部署がある。

毎日、零下30度の冷凍庫での作業を余儀なくされる人もいる。

冬場はともかく夏場は外気との温度差が激しく体調を崩し易い。

また生産工程に話を戻すと毎日、ひたすら冷凍魚の頭か尻尾を切り落とす単純作業を繰り返し指が腱鞘炎になって曲がらなくなった人を私は知っている。

私は彼に

「労災を申請すれば。」

と忠告したが、そんな事したらクビになるからと断られた。(つづく)

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